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大阪家庭裁判所 昭和39年(少)6384号 決定 1964年6月26日

少年 S・K(昭二二・二・二〇生)

主文

この事件を大阪地方検察庁検察官に送致する。

理由

罪となるべき事実は

司法警察員作成(昭和三九年五月二九日付)追送致書記載のとおりである。

上記の事実中

(1)は刑法第二四〇条後段、第一九〇条

(2)は刑法第二四三条、第二四〇条後段

(3)は同法第二四〇条前段

(4)(5)(6)は同法第二三五条

(7)は銃砲刀剣類等所持取締法第三一条第一号

に該当するところ、その罪質及び情状に照らし刑事処分を相当と認め少年法第二〇条により主文のとおり決定する。

(裁判官 松沢博夫)

参考一

司法警察員作成(昭和三九年五月二九日付)追送致書記載の犯罪事実

(1) 被疑者は、自動車運転手を殺害して、金品を強取しようと企て、昭和三九年五月○日、午後九時三〇分ごろ、大阪市住吉区○○三丁目××番地、株式会社○村組住○営業所前、国道二六号線上から、大阪府堺市○○町一丁目××番地、向○荘××号室、○○○タクシー株式会社所属の運転手、○田○市三八歳が運転するタクシー(大五か×××号いすずベレル六四年型)に「河内長野まで行け」といつて乗車し、同日午後一〇時一〇分ごろ、大阪府河内長野市○○寺××番地先、金○株式会社、社宅東南方約一〇〇メートルの、府道○内○野=××線、通称昇○坂路上において停車を命じ、いきなり所携の飛出し式ジャックナイフ(刃渡約八センチ)をもつて、同運転手の右頸部、後頸部など、二〇箇所に刺切創を負わせ、延髄損傷、頸骨動脈切断により、殺害し、死体を助手席に乗せたまま車を奪い、被疑者が運転して約二・九キロ走行した、大阪府河内長野市○△、府道×坂=××市線、山道上にいたり、同所において車を一時停止して、被害者の死体を車体後部トランク内に詰め込んだうえ、再び自動車を運転して、同所より約六三・二キロを走行し、五月△日午前零時一〇分ごろ、大阪市阿倍野区○○町××××番地大阪府住宅協会△△△団地内の路上に、死体および自動車を遺棄し、車内にあつた、現金約九千円ぐらい、運転免許証、自動車検査証、カーラジオの保証書、いすずベレルの説明書及び同自動車のキイ三個などを強取したものである。

(2) さらに被疑者は、自動車強盗を企て、昭和三九年二月○○日午前三時ごろ、大阪市住吉区△△二丁目、府道大阪=和○○達線上から、大阪市阿倍野区△○町七丁目××番地、清○荘××号室、○○交通株式会社所属運転手、○永○志二十四歳が運転するタクシー(大五か○○ノ○○ニッサンセドリック六三年型)に「鳳の少しさきまで行け」といつて乗車し、大阪府堺市鳳付近において、「河内長野の金剛寺まで行け」と行先変更を命じて、二月○○日午前三時五〇分ごろ、大阪府河内長野市○○町××××番地先路上において、「小便したいから停めてくれ」と停車を命じ、いきなり所携の長さ約二五センチ、直径約一・五センチの鉄棒(ポンチ)をもつて、同運転手の頭部を殴打したところ、「金は、やる、警察に届けんからやめてくれ」と哀願したが「嘘をいうな」と、さらに鉄棒で殴打したところ、同運転手が隙をみて、必死の抵抗をこころみたため、咄嗟に殺害することを決意し、殴打していた鉄棒を同運転手の前頸部にあてがい背部から鉄棒の両端を両手で握つて絞めつけ失心させたが、被疑者は同運転手を殺害したものと信じ、助手席に押しやつて、被疑者が運転しようとしたところ、失心していた同運転手が意識をとりもどしたため、さらに所携の鉄棒で、頭部などを殴打殺害せんとしたが、同運転手が隙をみて車外に逃れたため、殺害の目的を達せず未遂に終り、同運転手に対し、頭部挫滅創、顔・頸部挫傷、右肩・胸部挫傷、治療約三週間の傷害を与えたうえ、さらに被疑者は、自動車を奪つて運転し、同日午前四時四〇分ごろ、大阪市住吉区×××一丁目○○番地先路上に、該自動車を遺棄し同自動車内にあつた、現金約六千円ぐらい、前後部の大五か○○-○○のナンバープレート二枚を強取したものである。

(3) 被疑者は、自動車強盗を企て、昭和三九年二月△△日午後六時三〇分ごろ、大阪府堺市××町二丁○○番地、府道大阪・和○○達線、南○バス××町バス停留所付近路上から、大阪府堺市×山町××番地、○○交通株式会社所属、運転手○辻○男三二歳が運転するタクシー(大五え××-××トヨペットクラウン六三年型)に「羽衣まで行け」と命じて乗車し、二月○△日午後六時五〇分ごろ、大阪府泉北郡○○町△町×番地先路上において、停車を命じ、やにわに所携の、長さ約二五センチ、太さ約一・五センチの鉄棒(ポンチ)で、同運転手の頭部を殴打し頭部打撲傷、治療約四週間の傷害を与えたが、同運転手が隙をみて車外に逃れたため、乗車料金四八〇円の支払いをまぬがれ、財産上不法の利益を得て逃走したものである。

(4) 被疑者は、自動車運転手を殺害して、金と、車を奪うことを企て、その予備として実行後、奪つた車のナンバープレートを取りかえるため、予め、他の自家用ナンバープレートを窃取しておこうと考え、昭和三九年四月○○日午後一〇時ごろ、大阪市阿倍野区××町二丁目×番地の被害者方ガレージ内に駐車してあつた、大阪市住吉区××町一丁目××番地、不動産取引業○岡○美四五歳所有の乗用自動車後部に取付けてあつた、大五な○○○○のナンバープレート一枚を、窃取したほか、

(5) 昭和三八年一二月○日午前三時ごろ、大阪市阿倍野区△○町西五丁目××番地先路上において駐車中であつた、同番地、洋裁業○口○男三八歳所有の軽四輪乗用車マツダキャロル八大あ×××号一台、時価二〇万円相当を窃取し、

(6) 昭和三九年一月○日午前二時ごろ、大阪市住吉区□□町九の××番地、府営住宅前路上に駐車してあつた、同番地府営住宅○棟×××号、会社員、中○雅○三二歳所有にかかる軽四輪自動車、スバル三六〇、八大う○○-××号一台、および同車輛に積載してあつた、毛布一枚、靴二足、トランジスターラジオ一台、時価計一五万六〇〇円相当を窃取したものである。

(7) 被疑者は、何ら法定の除外理由がないのに、昭和三九年一月下旬ごろ、大阪市阿倍野区○△町、地下鉄○△町駅において、友人である大阪市阿倍野区○△町一丁目××番地、○○高校三年生、○口○治一七歳から、代金五〇〇円で譲り受けてより、昭和三九年五月一一日強盗殺人被疑者として、山口県山口警察署において逮捕されるまでの間、刃渡り約八センチの自動的に開刃する飛出し式ジャックナイフ一本を不法に所持していたものである。

参考2 少年調査票<省略>

参考3 調査報告書<省略>

調査報告書(1)<省略>

調査報告書(2)

大阪家庭裁判所

裁判官 松沢博夫殿

昭和39年6月16日

同庁 家庭裁判所調査官 山崎富雄

昭和39年少第6384号 少年 S.K

上記少年に関し、下記の通り調査したから報告します。

日時 昭和39年6月11日 陳述者 N.T(55才)(少年の実父)(瓦職人)

場所 陳述者の住居 住居 大阪府泉佐野市土丸226番地

陳述の要旨

(1) 実父の略歴

私はS.Kの実父です。私は明治42年3月18日、大阪府泉佐野市町×□○町で生れました。家は農業と織屋をしていました。4人兄弟の長男です。日根野の高等小学校を卒業し、家業の手伝いをしていましたが、18歳ごろ泉佐野市の○○陶業K.Kに入りました。その後昭和4年兵として、昭和5年1月に37連隊に入隊、同年11月に帰休兵として帰らせてもらい、昭和6年6月から堺市の○○染工場に事務員として就職しました。後、昭和10年10月1日、大阪府の巡査を拝命(俸給30円)、習11年3月に○山△子と結婚しました。昭和19年5月に巡査部長になり、終戦後20年11月に○田署を最後に退職しました。巡査をしている間に、昭和12年と16年の2回応召しました。警察をやめた後は、戦争中は私が経済係をしていて国のため協力を求めていたのですが、協力してくれていた民間の人たちが、戦後大変損をし、不協力の人たちが戦後、ずるいことをして大もうけをしているので、何もかもいやになつてしまい、そういうことの統制に矛盾を感じてやめたわけです。警察をやめてからヤミのブローカーをするようになり、石油や重油など扱つていました。そのすこし前昭和19年ごろ、いまの家内(沢田秀子)と知合いました。△子とは入籍もした夫婦であつたのですが子供がなく私が子煩悩であつた故もあり、養子はもらつていたのですが、実の子が欲しい気持もあつていまの家内の方に近ずくようになつてしまい、終戦後20年10月△子と離婚し、21年3月ごろH子と一緒になりました。H子は長女のため旧民法のため籍が抜けず、籍はそのままにしてここの泉佐野市×□○で世帯をもつようになつたのです。親戚を招いて披露もし、一応、略式ながら式をしたわけです。私は、前述の如くヤミブローカーをしていましたが、結婚当初は夫婦仲もうまく行つていましたし、H子のつれ子3人も、私が可愛がりましたし、その中、Kも生れましたので順調でした。

昭和21年末より、ブローカーをやりながら、堺市役所前のマーケットに店を出したりしましたが、ブローカーも統制違反で引つかかつたり、詐欺のようなことにあつたりして、段々うまくゆかなくなり、レッテルの印刷に専念したりしたのですが、借金もかさんだので昭和24年のはじめ、×□○町の家を売つて、借金を返し、残金で堺の○岡の方に家を買つて引越しました。○岡でもレッテルの印刷をしていました。このころ、Kは○岡のカトリックの幼稚園に入れました。幼稚園は2~3年通わせたと記憶しています。しかし○岡でもうまくゆかず、翌25年中ごろ又家を売つて、堺市石○町に移りました。そこでもレッテルの印刷をしたのですが大きい得意先が倒れたので、いよいよ行きづまるし、面白くないので、私も酒をよくのむようになり、家内ともよくもめるようになりました。結局そのようなことで26年私が家を出ました。旅廻りのブローカーを半年程して病気をしたので、再びこの×□○町に戻つてきて、幼ななじみの○本さん方で働かせてもらうようになつて現在に至つているわけです。瓦製造の職人をして月収1万~3万位です。うけとり制ですので月収は安定していないのですが、その上酒が好きな為、Kのための仕送りも確実なことが出来ずに来ています。

(2) S.H子との夫婦関係について

前述の如く前の家内とは子がなくて面白くなかつたことと、戦争末期と終戦直後の異常な心理状態もあつて、昭和20年はじめS.H子と内縁関係を生じ、21年3月には、H子と内縁ながら夫婦となつたのですが、商売の失敗と私の酒のためにだんだんもめることが多くなり、しまいには私が家を出ることになつてしまつたのですが、その後ずつと別居してはいるものの、私が月に2、3回訪ねて行つたり、正月もH子のもとですごしたり、又相談ごとがあれば○本さん方に電話してきて私が大阪へ出かけて行つたりするなど、一応夫婦らしい面があり、いたわりあつたりするところもあつたのです。別居してもう12、3年になりますが、私もH子も別に異性関係なく、ずつと別居夫婦のかたちですごしてきております。私が石○町の家を出てから、家内は2年程保険の外交をしたり、長女が働いたり苦労していたようですが、その後長女の婚約者であつた○本氏の世話で今の××町の家に移つたようです。

(3) 少年の性格については

Kは、母乳もあり、1年で離乳しました。別に病気らしいこともなく大切に育てました。私にとつてはじめての子ですし、家内にしても年をとつてから出来た子ですから、2人とも大切に甘やかせて育てたようです。姉や兄たちも父親違いですが、そんなことは気にせず、年もあいていますので皆が大切に育てたのです。そのためか甘えた子でした。おとなしくケンカなどもあまりしない方でしたが、負けん気は強い方でした。ですから甘えん坊であつても根は気のつよい子でした。人の悪口は絶対言わなかつたし、明朗な性格でした。もつとも最近はずつと会つていなかつたので、現在の性格は何とも言えないのですが、幼少時は今、申し上げたような性格でした。

(4) 父の性格

私の性格は、終戦を境にガテリと変つてしまいました。それ迄は、私は学校の成績も良かつたし、負けず嫌いで商卒の人にも負けないで独学で簿記の勉強をしたり、又警察に入つてからでも頑張つて、年とつてから始めたのですが剣道三段まで早く上達した位です。そのような私でしたが、戦後何もかもいやになり、ナマクラになつてしまいました。警察官時代も酒はすきで2升ものんだ位でしたが、戦後の酒はだらしなく飲むようになり、意志も弱くだらしなくなつたのです。

(5) 母の性格

家内は勝気な性格です。Sの親戚がうるさいせいもあり、文句を言われぬようにする為か何事もキッチリやりスキがありません。私の現在とは反対の性格です。後家を7年していたのでしつかりしたものと思います。

(6) 本件の原因

今度の事件については、何と言つても私が悪かつたと思います。仕送りを十分にしていなかつた為、Kにしては卑下していたのではないかと思うのです。家内も姉も兄もよくしてくれていましたので、余計にKにしては気を使つたり、立場が苦しい思いをしていたと思うのです。そのような気持ちが今度の事件の大きい原因と思うのです。それと、皆が大切にしすぎていたこともやはり原因のひとつだと思います。

(7) 現在の気持

5月6日の夜、Kが訪ねてきて、今度の事件を自分がやつたと言つた時、私はびつくりしてしまい、とに角、気持を静めようと2時間程ベットの上で気を静めた位です。そして、とに角被害者や世間に申訳ない気持が一杯で、こうなつたら死ぬしか方法がないという気持ちになり、本人もその気になつてくれたのですが、結局、現在のような結果になつてしまつたのです。ですから、今となつてはとも角、もつと苦しんで働けるだけ働き、Kがいつか出てきたときには、今までのようなだらしなかつた私ではなく、戦前の私のようになつてKを本当に更生させてやるため、生き抜いて行きたいと考えています。このことは一昨日、面会したとき本人にも言つたことです。家内は、私に高野山に登つて寺に入つて被害者の冥福を祈つたらと言うのですが、私としてはそれは楽なことですが、それはやはり逃避だと思うのです。それでは何にもならぬと思うのです。もつと苦しんで、Kのために生き抜いて行こうと思つています。被害者の○田さんには何としても申訳ないので、私としてはまだ誰にも言つていないことですが、何とか金をためて、お墓を建てたいと考えています。Kが、つとめてきたからと言つてすむことではありませんので、是非そうしたいと考えています。

しかし、今でも夢のような気がときどきします。夢の中で、今度のことが夢であつたとよろこんで目が覚めてやはり事実なのだと思つたり、警察でも言つたのですが、はつきり頭がまとまりません。最近やつと眠れるようになりました。仕事もボツボツやつています。

調査報告書(3)

大阪家庭裁判所

裁判官 松沢博夫殿

昭和39年6月16日

同庁 家庭裁判所調査官 山崎富雄

昭和39年少第6384号 少年 S.K

上記少年に関し、下記の通り調査したから報告します。

日時 昭和39年6月12日 陳述者 (少年の実母)S.H子52歳

場所 陳述者の住居 住居 大阪市阿倍野区××町2丁目××番地

陳述の要旨

(1) 実母S.H子の略歴

私はS.Kの実母です。明治45年4月22日、堺市○×町3の××で生れました。父は三○力○、母は○○子と言い、四女として生れました。父は大阪に店をもつ魚の仲買人でした。府立○高女を卒業し、昭和8年、S.S男と結婚しました。○○銀行の銀行員をしていた夫でしたが、S家に資産があり、その為、夫の収入は夫の小づかいにするような気楽な生活をしていました。夫は私より4歳年上でした。そして三人の子を生んだわけです。それがA男、R子、K子の三人です。そのように安穏に暮していたのですが、昭和14年1月1日夫が心臓麻痺で死にました。夫の死亡後、翌年夫の父も死んだのですが、夫がのこしてくれた借家の収入などでその後も苦労なく生活していたのです。その間、堺市○○東4丁目から堺市○町西2丁目のSの実家に戻つたりしましたが、戦争に入つても無事にくらしていました。その後籍をわけることになつて、私は子供3人と共に、堺市○○○町3の××に移り、そこで私が戸主になつて分籍した次第です。その中戦争がはげしくなつて昭和20年7月9日、堺の空襲で借家も、わが家も焼けてしまつたので友人の家に世話になつたりして、後、○田市の○○町に移りました。そのころ、今の主人Nとの縁談が出来てきたのです。私の兄の紹介で知合いました。Nも子ぼんのうでしたし、Nの前の奥さんに子が無かつたせいもあつて、縁談がすすみ、亡夫の七年忌が終つてから昭和21年4月Nと結婚しました。私が戸主でしたので籍は抜けず内縁の夫婦でしたが双方の親戚の顔つなきもして私は3人の子をつれて、泉佐野市×□○町のNの家に行きました。私はいくらかのものもありましたし、Nにさほど迷惑をかけずにすむという自信もあつて子供3人ともつれていつた次第です。当時Nは戦争終つて直後のことでもあり、ブローカーなどしていました。

そして、結婚の翌年22年2月20日、Kが生れました。そのころNはラベルの印刷をしたりしていたのですが、欺詐にかかるようなこともあつて、だんだん生活が苦しくなり、とうとう、昭和25年秋ごろでしたか、×□○町を出て、堺市×××町(阪和線○岡の近く)に転居しました。しかしそこでもラベルの印刷の仕事がうまく行かず、1年ちよつとで府会議員をしていた知人の世話で、堺市○○○○町の倉庫で改造した家に移りました。このころがもつとも生活は苦しかつたのです。私の持物をNにわたして売つてもらつても金が入らなかつたことや、病気の母から、「子供にだけは十分食べさせてやれ」と言つて、もらつた見舞金の中から金をくれたりしたのもこのころのことです。生活も極度に切りつめ、とに角計画経済で行こうとA男やR子と相談して、1週間分のお菜として、きゆうりとかつおぶしの粉を買つてきて、それでビタミンと蛋白質がとれるということで毎日そんなものを食べて1週間で500円残したと言つてよろこんだことや、石鹸がなくて洗濯ができぬこともあつたので、それも計画的に考えて、洗濯用2ケ、洗面用2ケと計4ケで1ヵ月やれるということがわかつたのもそのころのことでした。昭和26、27年ごろのことです。兄のA男もクラスで2番であつたのに、新聞配達をしたので8番に下つたことや、姉のR子も働くと云つて高校を中退するなど、とに角母子が生活に必死であつたのです。そして、そのころたしか昭和27年秋だと思いますが、Nがだまつて家を出て行つたのです。しばらく所在がわからなかつたのですが、翌年の正月ごろ×□○町の方に帰つていることがわかりました。Nはそこで瓦製造の仕事に使つてもらうようになつたのです。その後私は何度もNとの離婚を考えたこともあつたのですが、Kのことを考えると結局ンツとしておこうということになり、今までズルズルきてしまつたわけです。Nが出てからは私も裁縫をして袷1枚縫つて150円貰い兄も姉も働きますので何とかやつてゆけるようになりました。そして、昭和29年3月26日今のこの家に移つて現在に至つているわけです。

(2) N.Tとの夫婦関係について

先に申上げましたように、結婚してしばらくしてから、経済的な問題ではなく、N自身がだらしがなく、信じても裏切られるようなことが多く、人間として尊敬出来なくなつていたのです。しかし、Kのこともありますので、別れるというところまで決心がつかずきたわけです。別居するようになつてからでも、Kの為にもNの出入は自由にしていましたし、月に1回来るか来ないか位ですが、ときどき仕送りもしてくれたりしてきました。夫婦らしい情愛があつたとは言えませんが、それでも互いにかばつてもいました。Nは尊敬は出来ないが、憎むことも出来ぬ人なのです。その為、立直つてくれることを期待してかばつてもいたのです。

とも角、そんなことで他人からみると理解出来ぬ夫婦としてつづいていたわけです。2人とも、浮気をするわけでもなく、こうして12、3年つづいてきたわけです。

(3)少年の性格について

Kの性格は、明朗な本当に良い子でした。人の蔭口など絶対しないし、近所の人にもよく挨拶もし、にこにこしているので評判の良かつた子です。ただ私が甘やかせて育てたことがいけなかつたと思つています。私は、上の3人の子には私がしつけられてきたようにきびしいしつけをしてきたのですが、Kについては、丁度学校のP.T.Aの会合などに行きますと、よその親が夜勉強をすると夜食を作つてやるとか云つたことで非常に大切に甘やかせて育てているのを聞いて、私もこれからはこうでなくてはいけないのかなどとそのまねをした面もあります。結局サル真似であつたのでわるかつたと思います。兄や姉も、Kがひがんではいかんと思つて、叱るときも手をあけようと思つてもつい遠慮してしまうことが再々あつたと言つておりましたから、結局みんなから大切にされ甘やかされ育つたのが、悪かつたと思つています。

(4) 父の性格

N.Tの性格については先程から申上げたようなことです。<悪意は無いが誠意が無い>と言つた人なのです。気はよいがだらしがないといつた人で、酒も非常に好きで浴びる程のんだことのある人です。頭の良い字もしつかりした字を書く人なのですが酒のため少しボケたのではないかと思う位です。にくめない人ですが、腹の立つことをよくする人です。

(5) 母の性格

私の性格と云えばやはり意志が弱いと思います。こうやろうと思つてもすぐ相手の人のことを考えたりするので結局何も出来なかつたりするのです。しかし辛棒と、努力はよくし、辛棒という棒は折れないものだということをよく言われてきびしくしつけされた為ですが、そのように身についてしまつていると思います。

(6) 本件の原因

今度のようなことをしでかしてしまつたことについては、何と世間や被害者の○田さんにお詫びしてよいかわからぬのですが、その原因といつても私自身よくわかりません。ただ考えられますのは、私がKに動労と克己ということを教えなかつたことが悪かつたのだと思つています。掃除や整理にしても、きびしくきちんきちんとさせなかつたこと、本人の自由意志によつてやらせていたこと、今になつて後悔しています。そのような勤労というしつけをしていなかつたことが大きい原因と思つています。それからもひとつ、これは裁判所の人だから言うのですが、高校が余りにも自由主義的教育であつたことです。芦屋で挙つた事件(前件の窃盗のこと)の前は、学校をよくサボつていたことをその時知つておどろいたのですが学校全体に遅刻が多かつたし、自習時間とか先生の出張などの時は家に帰つてもよいといつた状況でした。芦屋の事件以後、Kはまじめに通学するようになつていたのですがとに角、学校は生徒の自主性を尊重するの余り、ルーズな点が多かつたようです。今度府教委で学校長へ勧告があつた(5月27日の朝日新聞所載)ことはみんなの為に良かつたと思つています。その前から、保護者会の折には、保護者がいつももつときつちりしめてやつてほしいと意見を言つていたのですが、学校側は、本人の自主性を尊重するからということであつたのです。ですから、学科を教えて頂く他はしつけの点では何もなかつたのではないかと思う位です。

(7) 現在の気持

とくに事件については、ものすごく悪い犯罪だと思つて申訳なく思つています。車を運転して働いている人のうしろから突き刺すなどとは全く卑劫な悪い犯罪です。ですから、警察に居るとき「会うか」と警察の人が言つていただいたのですが、亡くなつた人のことを思えば、その人には会えないのだからと思い、会いに行きませんでした。鑑別所に入つてからはじめて面会させて頂きました。ですから親戚の人は弁護士をつけたらと言いますが、私は、弁護することのない犯罪だからと言つてつけずに居ます。そんなきついことを言うからあのようなことになるのだと言うのですが、今の気持では弁護士をつけて弁護しようとは思いません。

しかしさきで帰つてきましたら、私はどこ迄もあの子のために、あの子と共に社会の役に立つ子になるよう努力して行きたいと考えています。そして、何故あの子の気持に入つて行けなかつたのか、あの子の気持の動きを知りたいとも思つています。

調査報告書(4)

大阪家庭裁判所

裁判官 松沢博夫殿

昭和39年6月24日

同庁 家庭裁判所調査官 山崎富雄

昭和39年少年第6384号 少年 S.K

上記少年に関し、下記の通り調査したから報告します。

日時 昭和39年6月18日、20日 陳述者 本人S.K

場所 大阪少年鑑別所 住居 不定

陳述の要旨

1事件の原因、動機について

何が事件の原因かと考えますと、一口に言えば「犯罰に興味をもつていた、憧れていだ」と言えると思います。ほかにもいろいろな原因がありますが、それがもつとも大きいのではないかと思います。どうして、そのような興味をもつようになつたのは、中学の3年生位のときから探偵小説を読み始めたのが最初です。イギリスの作家のシャーロック、ホームズ全集を学校の図書館で読んだのですが、非常に面白く感じました。勿論探偵小説ばかり読んでいたのではなく、石坂洋次郎や川端康成や夏目漱石やヘルマンヘッセやアンドレジードなども読んでいたのですが。しかし日本の探偵小説や推理小説などは嫌いで読んでいません。翻訳ものにくらべて何かきたならしく、現実的すぎていやな感じがします。松本清張にしても名前からしてセイチョウなどと言うのだからきたならしく感じます。その点翻訳ものは身近な出来事でなく、スマートに感じます。手ぎわよく、あざやかなので好きです。シャーロックホームズのもので記憶は残つているのは「バスカビル家の犬」です。これは、一種の怪奇小説ともいえるのですが、犬の伝説を利用して大きな犬に燐をぬつて、光るようにして自分が殺そうと思つている人にショックを与えて、ショック死させ事故死にみせかけるものです。その他、エラリークインというアメリカものの雑誌、略称E.Q.M.M.というものですが、これは、高校に入つてから勉強を見てもらつていた××先生に2冊もらつて読みました。また、今年になつてからは、ジェームスボンド「007」というスパイ小説を読みました。これはシリーズものの中の2冊です。そのようにして翻訳ものばかりの探偵小説、スパイ小説などを好んで読んだのですか、面白いので原語で読もうとしたこともありましたが、ステングが多いので読めずやめたこともありました。そうしている中に、高校2年生の頃からだと思いますが、そのような小説が芸術だと思うようになりました。「文学賞」などの対象にはなつていないようですが、芸術に違いないと思うようになりました。スマートなあざやかな犯罪の描き方には芸術を感じるのです。それが結局、描かれている犯罪そのものが芸術の感じがするようになつたのです。それにあこがれるようになつてしまつたのです。

勿論、小説ばかりでなく、テレビや映画も相当大きい影響があつたと思います。テレビではコメディも好きですが「サンセツト77」「サーフサイド6」「87分署」なども好きでした。テレビでもやはり外国のものが好きでした。日本のもの例えば「特別機動捜査隊」なども見ることはありましたが、何かとつてつけたようで好きではありませんでした。映画では最近では「地下室のメロデー」など記憶に残つています。その外、映画については映画雑誌でストーリーをよく読んでいました。以上のようなことで犯罪については、興味をもつようになり、芸術のような感じさえもつていたのです。ですから三輪車の使用窃盗の件で家裁に呼び出されて注意を受けたときも、そのような窃盗については、たしかに、もう絶対そのようなことはしませんと誓約書もその気になつて書き、事実その後はそのような事件はしていませんが、今度のような強盗事件とは全然別個に考えていました。

またそのような事件を完全犯罪としてやりとげることは、おそらく大きい自己満足が得られるだろうと思いましたし、もし捕つても、S.Kという人間が社会の片すみに居たのだということが世間に知らされるわけで、それはそれで意味があるように思つたのです。そのような自己主張といつた気持をもつようになつたのは、欲求不満とか、学校などで真の友達が居なかつたと思つていたせいだと思うのです。欲求不満というのは、無視されていたような感じ、信用されていないような感じをもつていましたし、話し合える人が少なかつたこと、学校の先生にも言いにくいし、母はきびしくて、衣類にしても、私の希望をきかず、母の好みで決めてしまつたりするので、いつも何となく満たされていない気持があつたことです。

それから、やはり金が欲しい気持もありました。友人に借りていた金それも母に内緒で借りていましたので、友人に「返せ」と催促されたり、「返さぬと家に行く」と言われるので困つてしまい、とに角金が欲しい気持になつていました。又、金は借金を返すだけでなく、あつた方が良いものですから、そうした欲もあつたのです。

又、人命軽視の気持がありました。被害者について考えなかつたかと言われるのですが、誰と決めた相手でなく、通りすがりのタクシーの運転手ですから、具体的に考えてはいなかつたのです。この原因のひとつはテレビなどで簡単に人を殺したり、気絶させたりする場面をよくみていましたので、その影響だとも思います。又、小説についても被害者のことについては余りふれていないことが多く、被害者のことを考えることが少なかつたと思います。ですから今度の殺人のことでも、被害者の真うしろからやつていますので、被害者の顔は全然見ていません。今、時々被害者の○田さんの顔を思い浮べるのは警察で見せてもらつた写真の顔です。ただ、このようなことを言うとどうかと思いますが、被害者のことを考えたのは自動車の外で殺すと、車の外につれだして、殺すまでの間、恐怖心を与えることになるので、そのために一気にやつた方がよいと考えたことです。そのようなことで実際の場面には、被害者が可哀想とは思わずやつてしまいました。

それと事件の原因の中に、学校の成績が悪く、三年生になつてしまつたことについてのアセリがあつて、いらいらしていたこともあります。

そして、自動車強盗をえちんだのは、手近であつたことです。その他の方法の強盗などは考えていませんでした。手つとり早いことです。それと、やはり自動車が好きであつたこと、運転出来ることもあつたかち、この方法をえちんだのです。

2高校2年生以来の経過

高校1年生の時は、「遊べるときに遊んでおけ」と先輩に言われたことが頭にあつて勉強に力を入れず、クラブ活動として水泳部に入つてよく練習したりしていたのです。そのため成績が下つてもやる気になつてやればすぐ取戻せるような気持もあつて、別に悲観せず、あせりもしていなかつたのです。高校2年生のはじめごろ、友達にスクーターにのせてもらつたことあり、それからは、急に単車に興味をもつようになりまた。すぐ熱中する方ですから、それから、すぐ5月ごろには軽二輪の免許をもらいました。そして友達の車を借りて乗つたりしていたのですが、自分の車が欲しくなり、2年生の夏休みに姉R子の主人のMさんのところへアルバイトに行き、その収入と、友達○島○二から借りた3,500円とあわせて13,000円で新世界の方で中古品の単車を買いました。アルバイトの仕事は、綿布の荷積みや荷下ろしの仕事です。単車を買うのは母に内緒でしたので、持つて帰れぬので近所の路上に置いておき学校から帰つてから乗り廻してたのしんでいました。その時停止違反や一方通行違反や無灯火運転などをして捕つたこともありました。しかしその単車も路上に置いておいた為、2週間位で盗まれてしまいました。その後10月の終りごろ、単車を盗つて乗り廻そうとしたのは、車にのりたい気持と、盗まれたから盗り返してやれという気持も少しはありました。それもすぐ捕まり、又、その後11月ごろでしたが、石○君と2人で軽三輪を盗んで芦屋で捕まつたときも、警察で注意されたのですが、そのころは勉強もせず、遅刻も多く、学校の成績も最低でした。ですから、12月になつて今度は1人で軽四輪キャロル62年型を盗みました。その前、別所自動車教習所に行つて四輪車の運転の練習をしたこともあるので(11月ごろ)、キャロルなども運転出来るようになつていたのです。この車は1ヵ月程、近所の路上に置いておいて、その間学校から帰つてきて乗り廻してドライプをたのしんでいました。その車は乗つている中に動かなくなつたので、今度はスバルを盗つて、キャロルを乗り捨てました。スバルは加速も良く乗り心地もよかつたのですが、盗つて1週間目の時捕まりそうになつて車を捨てて逃げてしまいました。勿論このように次々と四輪車を盗つて乗り廻していたことは母は知りませんし、友達も誰も知りませんでした。しかし2年3学期に入つてからまじめに勉強し、遅刻もせず、3年に進級するため努力しました。けれども、何とか勉強をしようとしたのですが、机に向つても勉強に熱中出来ないで、根気のつづかぬのにいらいらするようにもなつていました。勉強すれば成績は上るのだという自信があつたのですが、やつても根気がつづかず、つい小説を読んでしまつたり、いやになつてしまつたりするので、だんだん自分がみじめな気持になり、何か派手なことをして世間をおどろかしてみたい、といつた空想をするようになつたのです。私はたしかに空想家でした。ロケットに乗つてみたいと思つたこともあります。それに先程言いましたように、学校内で真の友人はなかつたし、女友達も私にツンツンしているようでしたし、皆の私を見る目が違つているようで、無視されているような気持になつていたので、余計そんな空想をするのでした。私を見る目が違うというのは、私についてヘンな噂があつたからだと思います。ヘンな噂というのは、私がタバコを喫うとか、喫茶店に入るとか、女の友達があるとかいつた噂です。高校2年生のはじめごろより夏前まで○野という女の子と交際したこともありましたし、映画スターのマリー、ラフォレー(フランス)にあこがれて私自身イカレていたようでしたからそんな噂がたつたのだと思います。色も原色の赤などが好きでした。2年2学期の終りごろからは色の好みも変り、服装なども紺やわさび色などしぶい色を好むようになりました。主として友人の影響です。そんな状態のところへ単車を買うときに借りた3,500円の借金が仲々返せないので、今年の1月の末ごろ、自動車強盗をやろうという考えをもつようになりました。その前に、友達からナイフを買いましたが、その時は犯行に使う気持は全然なく「恰好がよいので欲しかつた」という気持だけでした。それで2月18日の事件のときは、ナイフは全然使うつもりはなくずつと以前、私が小学校5年か6年のときに拾つて家に置いてあつた短かい鉄棒を持つて出て、それで運転手を気絶させて、金を盗る気であつたのです。結局、2月18日の事件では一銭も盗ることが出来なかつたし、つづいてやつた2月22日の事件では金は4,000~5,000円盗つたのですが、運転手と格闘になり、運転手がもう少し強ければ捕つてしまうところでしたから、どちらも私としては失敗したと思いました。その後も引続き学校の方はまじめに登校し、3年生に進級出来るよう努力していましたし、3月の下旬、咋年の軽三輪の窃盗で家裁に呼び出されたときも、誓約書も本心で書きました。しかし私は知能的な事件は完全犯罪としてきれいにやれば芸術のようなものだと考えていましたので、普通の窃盗などとは次元の違つた全然別のもののように思つていました。そして、何とか3年生に進級することが出来、3年生になつてからも、勉強しようと努力していました。「机の前に坐つても、汗が出たりして気持が落着かぬのでどうしたらよいか」と担任の堀江先生に相談したこともあります。4月の中ごろです、先生は「一度医者にみてもらつたらどうか精神科の医者を紹介してやろうか」と言われたと覚えています。そのようにして何とか勉強して希望の大学に入りたいとも思つていたのですが、一方では2月の事件の失敗をくりかえさぬ完全犯罪を目指す気持もあり、結局は運転手を殺さねば駄目だと思うようになつたのです。事件の当日のことは警察で言つた通りです。

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